「人事を制する者は経営を制す」

日本に起きた最初の国難に立ち向かう防人たちの苦悩と悲哀


大宰府天満宮を見た後、防人の舞台となった城塁「水城(みずき)」を見に行く。
中国の万里の長城と同じ発想で、博多湾にむかって海からの敵軍を防御する施設だ。

日本は、そのころ、
663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗した。唐が攻めてくるのではないかとの憂慮は、その頃の朝廷の強迫観念は物凄く翌664年に水城を築かせている。

この写真からも分かるように九州大宰府を守る形で山と山の間をこの水城を築いてせき止める施設だ。

水城.jpg


以下ウィキペディアより参照。

平安時代に入り、桓武天皇の792年に健児の制が成立して軍団、兵士が廃止されても、国土防衛のため兵士の質よりも数を重視した朝廷は防人廃止を先送りした。

実際に防人軍団の外国勢力との交戦は、1019年に中国沿海地方の女真族が対馬から北九州を襲撃した刀伊の入寇の一度だけである。院政期になり

次第に防人軍団の規模を縮小し、大宰府消滅とともに消えていった。

『日本書紀』には次のことがらが記されているので、水城構築の背景には安全保障上の並ならぬ懸念があったことが分かる。

a.. 663年、日本は百済に味方して朝鮮半島で唐・新羅連合軍と戦ったが大敗した(白村江の戦い)。
b.. 当時称制を執っていた中大兄皇子は、唐・新羅がさらには博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し、万一の場合に備えて翌664年に水城を築かせた。
c.. 翌665年には北九州から瀬戸内海沿岸にかけて大野城、基肄城、長門城などの古代山城(朝鮮式山城)を築かせた。
d.. 667年には都を内陸部の近江大津宮に遷した。
e.. その翌年の正月に中大兄皇子はやっと即位した(天智天皇)。
f.. 築城にあたっては、亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)が建設の指揮を執った。

後年、1274年の文永の役では、襲来する蒙古軍に対する防衛線として改修が施されたが、ここが実際に戦場となることはなかった。

弥生時代に本格的な稲作文化が、伝わった辺境に地で後進国であった日本が、その頃の先進国である唐に戦いに挑んだというのは、驚きである。

これだけの防備と警備をあたらせるには、相当の権力と地方への政権への信頼と浸透が必要であり天智帝の善政を窺える。





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